「不良ミニマリスト」とは、完全に私の造語です。
ミニマリストになってからというもの、なぜか自分が不良になっていく感覚がありました。
でも、大人になってからの不良は楽しい。
今日は、不良とミニマリストとの関係について、私自身の経験をお話ししたいと思います。
不良とミニマリストとの関係性
不良とは世間の常識から自由になること
モノを手放してから、「ああ、自分って不良だなあ」と感じることが多くなりました。
自分軸でいらないものを判断して手放す、を繰り返した結果、自分軸が固まり大切なこと以外は頑張らなくなりました。
その結果、世間が「良い」としていることから逃げ、世間から好かれる努力をやめ…。
つまり、ミニマリストになることで自分軸がはっきりして、世間や他人に対して頑張らなくなったことが私の不良生活の始まりです。
思い返してみると、校則違反をしていた子たちは、そもそも反抗が目的ではなくて「それに従う必要本当にあるわけ?」という純粋な気持ちからだったと思うのです。
茶髪がダメという校則も、今にして考えれば「なぜダメなのか」を的確に説明できる先生は一人もいなかった。
私も校則違反の子達と同じで、ミニマリストになってからは「人間が決めたことは、人間が変えてしまっていいのでは?」という思考に変わりました、
常識と言われる習慣に対し、一から疑問を持つようになったことが、私の不良の一歩でした。
ちなみに…私は集団行動が苦手で、その面倒くささからいつの間にか他人に従ってしまう傾向がありました。
長く続いてきたことや皆がやっていることに思考停止で従う日々。
でも、モノを手放しまくることで感性が敏感になって、手放す対象がモノだけでなく、ヒトやコトにまで及び、その延長で常識まで手放していったという感じです。
私が手放した常識たち
「私が常識だと思うこと」を手放すにはそれほど勇気は要りませんでした。
私が「不良だよなあ」と感じながらも徐々に手放していった例をご紹介します。
なんと薄情でワガママで非生産的な人間なんだ…と自分で書いてて心配になってきます。
けれど、これまでの私は、圧の強い人からプライベートに土足で踏み込まれたり、時間を奪われたりしがちだったため、上のような行動に変えるくらいがちょうど良かったのです。
「人生がこんなに楽になるなんて!」と小躍りしました。
常識を手放したとしても、自分の中にある「他人に対する思いやりや感謝」をないがしろにしなければ、例え一人一人が自分軸で生きたとしても、世の中がうまく回ると信じています。
不良になってから嫌われることも
もちろん人が当たり前としていることに従わないのだから、陰口を言われたり嫌われる機会も増えました。
でもそういう人たちは、面と向かって言ってこないというのも特徴です。
当たり前としていることには根拠がないため、面と向かって「あなたはおかしい」とは言いづらいのではないかと思うのです。
この時の不良の気持ちとしては、「直接耳に入ってこないことは、無かったも同然だから気にしなくてよし」。
以前、入社したばかりの職場で「行動が気に入らない」と陰口を叩かれたことがありました。
「古株である自分をヨイショしなかった」「雑談に入ってこない」「新人らしい低姿勢ではない」など、暗黙の了解がわかっていない、という内容でした。
周りから「陰口叩かれてるみたいだから、一言だけでも謝ったら?」と謝罪を促されましたが、直接言われたわけではないため、そのまま無視しました。
で、陰口を叩いた人たちとは険悪になってしまいましたが、直接伝えるほど重要ではないのだろうから謝る必要は無し、と今でも考えは変わっていません。
正面から伝えてくれた相手にだけ、丁寧に冷静に向き合う。
そのくらいシンプルでいいのではないかと思います。
例え昇進に響こうが友人が減ろうが、これからの人生でもこれは貫いていくと思います。
私の理想とする不良とは、外野が何を言おうと、自分の考えで動いて、潔く責任を取る。
自分の人生に集中する不良は、内容の薄い文句をいちいち耳に入れている暇はないのです。
私がこれから目指したい不良
「この人には何を言っても無駄だな」とイッパツで思わせるくらい一貫性のある不良でいたいと思っています。
職場でも、毎日定時で帰宅したり、一番いい日に長期連休を取ったり、飲み会には一切不参加だったりと一貫している人がいますよね。
私はそのような人たちの潔さに惚れ惚れし、本当によく観察していました。
彼らに共通していることは、
この2つの要素により、外野に文句を言わせる隙を与えていませんでした。
行動に一貫性があり、ちゃんと組織にも貢献しているので、正義を振りかざして矯正しようとする常識人も近寄ってこない。
「あの人だから仕方ないか」
このくらいに言われるほどの一貫性のある不良になりたいと思っています。
さいごに
「この程度では不良といえない」「ここまでやるなんて人でなし」「そもそも不良の定義が違う」という意見もあると思います。
でも、日本には信じられないくらい常識で固められ息苦しい思いをしている優しい人たちが、とても多いように感じます。
そのような人たちに対して「こんなにラクに生きていいんだ」と背中を押せるような存在でありたいと思いこのブログを始めてみました。
一度しかない自分の人生を、より自分らしく生きることができるように。
まだまだ不良として未熟ですが、これからも「不良人生の楽しみ方」をゆるく発信していきたいと思います。
コメント
初めまして 百年草のブログをみてこちらへと訪れました。
滞在中の過ごし方に読んでいるだけで癒され 自分もよく利用する宿でしたので懐かしくなって読んでました。
人それぞれの価値観というものが 以前よりも窮屈ではなくなって 個人の感じる幸福感も人それぞれですね。
自分はどうしたいのかを 追求する毎日(消費も含めて)だと疲れてしまうのだと思います。
もっとゆったりとたおやかに生きていけたら楽なんでしょうにね。
頭を空っぽにしていく時間も大切です。
こういうブログに初めて記載するのですが 勝手な感想をお許しください。
ご結婚なさっとのブログも読みました。これからの日々も気づきと幸せが多くあります様にと祈っております。
コメントいただきありがとうございます。
まさに「旅した気分になっていただきたい」という思いから書いた記事でしたため、このようなコメントをいただけてとても嬉しく思います。
足助も百年草さんも、本当に素敵な場所ですよね。
また旅のコンセプトでもある「他人の価値観に惑わされず、のんびりゆったり自分の時間を楽しむこと」にも共感いただけて感無量でした。
いただいたコメント、本当に励みになります。
まだ方向性も決まらず未熟なブログですが、これからもゆるく続けていきますのでお付き合いいただけますと幸いです。